経済・政治・国際

2011年2月 1日 (火)

「ドラマ「私は屈しない・・・」

 

131日夜9時から約2時間(コマーシャルも入る) TBS-TVは、月曜ゴールデンタイム放送として「私は屈しない~特捜検察とたたかった女性官僚と家族465日」というドラマを放映した。

 これは、つい半年前まで尾を引いた、障害者団体への郵便料割引制度を悪用した事件で、厚生労働省の女性局長村木さんが逮捕され、起訴されたが、裁判で無罪となったことを、作家の江川紹子のインタビュこー記事にした。これを二人の脚本かと演出家が事件から4カ月余りでドラマ化され、放送されて、見ごたえのあるものとなった。

その後、検察側の証拠改ざん事件として、これはこれで、検察内部の腐敗事件のような内容を帯びてつづいているが。

 戦後のいくつかの重大事件や私自身がかかわったごく小さな事件とも関連していたので、気を抜くことなく最後まで見た。 そして、被告の村木課長が毅然たる態度で無実をうったえつづけ、検察側の描いた犯罪図式を見事に覆して無罪に到る。

 

 今政治家も官僚も、ご都合主義で、その節操のなさは、現民主党政権の動きをみてもがっかりさせられるが、村木課長が、自分は国民の公僕であり、国民のために仕事をすること使命としている、というごくあたり前の事を貫くことに、戦後70年近くたっても、特別な努力をしなければならないことに憤りを覚える。

 改めてこのドラマを再見する機会をつくりたい。また221日に同じ局の予定されているドキュメント番組についても期待したい。(20110201)

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2010年12月18日 (土)

レッドパージ60周年の記念集会に参加する

201年12月11日、東京でレッドパージ60周年記念の集いが開かれ、私も初めて参加しました。この集会には全国から250名をこえる人々が集まったことを知って、とてもうれしく感じました。会場の受付にはそれぞれが年輪を感じさせる白髪の老人に交じって、30代の人も出席していたことは、たたかいの歴史は必ず受け継がれていることが深く印象にのこりました。この集会に先立つ1カ月近く前、高炉会の同志小西悟さんは、92歳で亡くなりました。

私の職場は、日本鋼管川崎製鉄所圧延工場で、戦前から「金と命の交換会社」と恐れられていたところです。家計を助けるための入所した時、母は「すまないね!すまないね!」と繰り返していました。事実、入社後3カ月近くたって、同僚のちょっとしたミスで、私の左足ふくらはぎに大やけどをして、50日も休むことになったことがありました。

この製鉄所では78名の同志全員が1950年10月30日に職場から追放されたのです。組合は総同盟系で「連合国最高司令官の命令だから」という理由でパージを認めてしまいました。

私は思うのです、もしあの時、1947年に施行された日本国憲法をしっかり学び、国の最高法規に深い認識があったなら、別なたたかいがあったのではないかと。法治国家として、思想信条の自由、基本的人権についての理解は、いまほどの理解はありませんでした。

戦後の共産党の革命路線について、暴力革命を方向づける指導や学習がおこなわれていても、発達した資本主義国における民主主義革命についての認識は極めて不十分でした。

ロシア革命についての文献、矛盾論・実践論に代表される中国の武力革命だけが唯一の方法としてうけとめてきました。しかし、日本国民の平和的信条、諸外国の文物も人との交流も素直に受け入れて、自国の向上のために利用して行く国民性を否定するようなことが党の方針であるかのような一面的に指導が随所にありました。

「解雇通告も開封もせず、まとめて突きかえす、相手が受け取らなかったら竿の先にぶら下げて投げ入れる」なんて言う意見がまかりとおっていたのです。

10月30日には職場にもぐって籠城するといっても、私の場合には片番で100名以上いるなかで、パージを受けたのは私一人では、そんな作戦は少しも役にたたなかったのです。不当解雇反対のたたかいを職場毎に籠城する戦術は少しも役立たず、たまり場へ行くと、勇ましいことを言っていた指導部員も早々にたまり場できていました。

その後、全同志は、6カ月間の失業保険で川鉄に不抜の党を建設しようと決意したのです。そして、さまざまなルートから製鉄所内部の支持者に対して働きかけて組織を確立し、運動はすすめられていきました。また、パージを受けた頃、川鉄細部機関紙『高炉』は、たたかいの烽火を高く掲げたことから、警察の発行停止処分を2回、3回と受け、このガリ切りをしてくれていた根本さんは、当局の追及をかわしながら発行をつづけていきました。

私は、国際語エスペラントを1947年ごろから学びはじめ、『万国の労働者団結せよ』のスローガンを実行するために国際文通をしはじめていました。朝鮮戦争がはじまると中国上海の若い漫画家と文通するようになり、「抗米援朝』の色刷りポスターを送ってくれたので、あまりきれいなので現場の休憩室に張ったことから、米軍憲兵に密告されて逮捕されてしまい、これが私のパージの理由です。

東京で仕事するようになって、それから1956年までは国際文通からも離れていました。

私が福島県常磐炭鉱地帯から戻って再び川崎で現場の労働者として働き始めました。石油コンビナートの大型修理工事に参加するために、診療所で健康診断を数名で受けた時、同じパージを受けた友人と再会しました。

川鉄の同志たちは、八丁畷の屑金商の店で働いたり、そろばんのできる人は民商の事務局で働きながら、パージ組で作った『高炉会』の集まりの世話をしてくれていました。それぞれがある程度落ち着いた仕事にありついたのは、1960年の安保闘争がおわった後だったでしょう。

当時の池田内閣は、所得倍増計画をかかげて10年後には所得を10倍にするといきまいたのです。結果として労働時間が長くなり、私は週2回くらい徹夜の仕事で稼ぎを働き出しいていたのです。

すでにかきましたが、中学2年の時に予科練に志願し、島根県宍道湖畔で、901海軍航空隊玉造派遣隊の16歳の通信兵として大本営から放送される暗号電報を受け取る毎日でした。

昭和20年7月28日に米軍グラマン戦闘機が落した小さな爆弾が整備兵の兵舎を直撃しました。機銃掃射を受けて急いで田んぼに伏せて立ち上がった時、目の前で爆弾が落ちたのです。これが私に戦後、平和のために生きていく決意をかためさせました。

旧制中学を卒業して働きはじめた時、エスペラント語を横浜国立大学経済学教授から2回ほど手ほどきをうけ、その後、大島義夫さん(在野の言語学者)の援助をうけてきました。

1967年11月11日、由比忠之進さんがベトナム戦争反対、沖縄の無条件降伏を要求して焼身抗議、70年エスペランチスト平和の会を作り、会長として国際的な運動を続けました。

1971年10月、戦時下のベトナムを訪問、以後現在まで12回訪越し、ベトナム点字図書館プロジェクト・マネージャーとしても働きました。

そして今も会のHPを続ける仕事をしています。これが私のエスペラントを利用した国際連帯の活動です。エスペラント語を通して、ベトナムばかりでなく、イギリス、ドイツの旧友たちと文通を続けています。

来年7月には、デンマークでは世界大会があり、もう一度訪ねたい国です。20127月末に、ハノイで世界エスペラント大会が開かれ、参加する予定です。

111日にすぐ下の弟が亡くなりました。78歳でした。12月に入って3番目のひ孫娘が生まれました。孫やひ孫の成長は、弱りかけた体に鞭打って生き抜く勇気を私にあたえてくれています。

人は死に、人は生まれ、その連鎖の中で生きていく力をもらえる喜びを感じています。

今年は厳しい寒さですが、十分に健康に気配りをして、新しい時代の到来のために精一杯生き抜きましょう。良いお正月をむかえてください。

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沖縄からの伝言 第1回

 今年もあとわずかになりました。皆様には新しい年を迎える準備でお忙しい日々でしょう。本土の皆様へ沖縄のことを伝達する「沖縄からの伝言板」を随時お送り致します。沖縄にたいする日本政府のやり方が戦前と同じ状況になってきましたので、沖縄のマスコミの末端にいた者として考えていること、沖縄で起こっていることを「沖縄からの伝言板」としてメールでお送りいたします。ご笑覧いただけると、有り難いです。また、皆様のメール友に転送なされても結構です。

日本の最高指導者である菅直人総理大臣が17日に来沖、米軍普天間基地の代替地として辺野古への押し付けるため、仲井真弘多(なかいま ひろかず)県知事と会談いたしました。その席上、菅直人総理は「辺野古移設がベストではないが、ベター」と主張しています。しかし、4月25日の県民大会には保革を問わず、全市町村長・議会議長、県議が参加して「米軍基地ノー」を突きつけております。もちろん、県議会でも保革とも基地反対の決議をしています。沖縄の県民総意は「基地は要らない」ということです。だが、それでも押し付けるのは、なぜか。

琉球大学の我部政明教授が琉球新報(12月18日)で指摘しているとおり、「総理の来沖は、アメリカにたいして辺野古移設に努力している」というアピールであって、押し付けでなければよいのですが―。しかし、前原外務大臣、仙谷由人官房長官などの来沖もあり、にわかには信じがたいです。仙谷官房長官の地元・徳島県で受け入れない危険物をどうして沖縄に甘受してもらうのですか。「わが身をつねて、ひとの痛さを知れ」という諺を仙谷官房長官に教えて下さい。この国の政治家は劣化、学力低下は深刻な事態です。

現在の沖縄の状況は「沖縄戦前の状況とまったく同じだ」と年配の方々は指摘しています。防衛大綱が発表され、自衛隊の宮古・八重山への配備などが活発化してきました。中国との対立・軍拡を煽っています。尖閣問題など多くの出来事がありますが、今年のもっとも注目されたのは沖縄県知事選挙です。だが、革新の選挙のやり方を見て、私たち「新しい県知事をつくる会」は8月段階で3万票以上の差を予測していました。第1回は、先に沖縄タイムスに投書してボツになった原稿からスタートします。                            

        

基地に固執した革新側の県知事選挙 無頓着で県民意識を無視して大敗

 

「これまで革新に投票していた有権者が棄権した。また各地で自然増加した有権者をつかむことができなかった」。この指摘は長年、選挙広告や有権者の動向調査に携わってきた大手広告会社のOBの分析である。名護市では投票増加した三千七百余が保守側に流れたなど、各選挙区の選挙結果と過去の選挙から割り出した結論を聞いたとき、得票数の相関関係にびっくりした。

 もう一つは、琉球自治州の会代表の大村博さんが会報『清ら風』(第9号)で、県知事選挙の最大の争点は「経済の自立をどうはかっていくか」だったが、革新側は「県民意識の地殻変動に、あまりにも無頓着すぎた」との分析である。

 大村さんは沖縄タイムス社と朝日新聞社との事前の世論調査でも「経済活性化」49%が、「基地問題」の36%を大きく上回っていたことからでも分かる、と述べている。

 さらに「県知事選挙の投票率は6088%で、過去2番目の低さだった。事前の関心度が90%を超えていたことからみて、意識的棄権票がかなりあった。本来革新にいくべき票が棄権にまわった」との見方を示している。広告会社OBと大村さんの分析が同じ結論を出している。

革新側が固執した米軍普天間基地問題については四月二十五日の県民大会、県議会決議で保革を問わず基地撤去を決議している。本紙で沖国大の佐藤学教授は「基地問題は争点にならない」ことを指摘していた。多くの県民もまた同じで、争点にならない基地問題をあくまでも争点にしようとした革新側に戦術的なまずさがあった。基地が争点にならなければ、次にくるものは自立経済であることを有権者はよく知っていたのだ。

 しかし、革新側は基地問題を選挙戦戦術として推し進め、選挙戦の後半になって経済を持ち出す始末。それでは一旦離れた民意は取り戻せない。大村さんが「無頓着すぎた」という指摘である。

また、基地問題に固執する革新側の選挙戦術を見て「みんなで県知事をつくる会」では八月の時点で「3万票の差で革新側が負ける」という予想をしていた。それを回避させるためアジア沖縄経済研究所代表の宮城弘岩氏との組み合わせに努力を重ねたが、結果的には十分受け入れられなかった。

 宮城氏は沖縄では数少ない国際経済人で、「わしたショップ」をつくり沖縄物産を売り込んだ功労者である。ピーク時には一千百億円の売り上げで、これはトップ企業の沖縄電力より百億円少ない売り上げだ。

これまでは振興費など政治頼みの経済政策、米軍基地だのみの基地経済を主張する者がほとんどだった中で、沖縄物産による経済振興に力を注いできたことは特筆すべきことである(『沖縄世論』冬号)。

 海洋博以後に作り出された大勢の失業者。それが今も改善されず続いている。日本一高い7・8%の失業率を無くするためには産業を興して、人々を就業させることである。そのことを県民は考えるべきだと思うが、どうだろうか。 以上

比嘉康文(ひが こうぶん) 68歳。元沖縄タイムス記者。「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」事務局長

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2010年11月 1日 (月)

不破哲三著「私の戦後60年」を読む(16)

   

15章「21世紀の日本を考える」

最初に「戦略」という言葉がでてくる。これは、プロイセン(ドイツ東北部)に生まれた(1780-1831)クラウゼビッツの戦争論に出てくる軍事用語で、私は、スターリン「レーニン主義の諸問題」のなかで、初めてお目にかかった。戦略とは、長期の展望、つまり綱領のようなものであり、戦術とは、その展望を実現するための手段だと理解しているが、これはまちがいだろうか。

戦後の日本は、アメリカに従属してきたが、世界中で戦後の日本はどのような展望をもって生きていくか、ということにおいて無批判であり、自主性をなくすために努力してきたように思う。

人生において、どのような仕事をえらぼうとも、その仕事を通じて独自の考えを持つようになるが、国家の方針が従属的になると、その人の独自性がゆがめられることもある。

21世紀は、植民地がみな独立国となり、貧富の差はあれ、世界が平和共存の時代には、すべての国、すべての国民が自立した見識を持つことが第1、次に自立した生活を営み、福祉については国家が全面的に補償していくことが当たり前にしなければならない。

ところが日本は戦後アメリカに従属して、軍事面のみ、充足してきたが、教育や福祉のことになると全くおくれているのは、この章で言われる無戦略のためである。

 

著者が指摘する、「三つの異常さ」はそのような中で発生した。歴代の保守政権はその異常さを感じても逃げ歩いたのだろう。アメリカに対しても、国民の切実な要求に対しても。

国家として他国に多大の人的、物的損害を与えながら、60年たっても、そのどれも完全に弁済しない国になった。そして、著者が指摘するように、政府の認識はアメリカの窓からのぞくという状態になり、国民に対してもそうしてきた。

 イラクでアメリカが侵略戦争を始めた時、NHKをはじめ多くのメディアは、イラクや周辺国にどんな影響を与えるかを抜きにして、アメリカ軍の空爆ばかり熱心に報道してきた。それはまた、ルールなき日本の資本主義を増長させることになった。

 いま私たちの前に残されているのは、国家の自主性を守り発展させ、国民の生活を第1に考えた政策に転換することだ。憲法を守る国民的な運動である9条を守ることだけでなく、福祉をはじめ教育、環境問題にも運動をもっと広げて世界の支持と尊敬をあっつめていかねばならない。それは歴代の首相が海外へ行くたびに円をばらまくこととはまったく違う。

いよいよ最終章にたどりついた。読後感をブログに掲載したのは12日間だけだ。図書館で見つけたこの本をもっとしっかり読みたいと、新潮社に電話したら絶版だという。70年も前から利用している有隣堂にも残っていなかった。自分の本ならば線を引いたり書きこみができるが、借り物となるとそうはいかない。線を引く代わりに短冊形のラベルを張っておいて、後でパソコンかに書き込みをした。

10月半ばになると、涼しさを通り越して、寒さも強まり、この夏、体重の自然減少が起こったから、それをおぎなうために、いくら食べても、また寝て、満足が得られない日が1週間もつづいた。  

20日以後になって、やっと落ち着いて読むこともパソコンのキーも気合を入れて、たたけるようになった。私は評論家ではないし、できの悪い無名の労働者だから、自分の体験を通じて、すべてのものを見たり、聞いたりして、ブログを書いている。友人は、このブログを個人のものとして、もっと自由に書いたらいいと助言してくれた。(やっとおわった)

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2010年10月31日 (日)

不破哲三著「私の戦後60年」を読む(15)

14章「野党外交を展開して」

「中国との党関係を正常化する」のなかで、日中関係の五原則は、中国のみならず、かって、侵略し、誤りを犯した国への基本的態度になる。私は直接海外へ兵士として戦争に参加したわけではないが。

中学校の入学試験のとき、試験官の先生が、進学理由を聞いたので、「2年生の秋に予科練に志願して兵隊になる。早く戦争にいかないと終わってしまう」と答えた。

18歳なって働き始めた時、国際語エスペラントを勉強し、中国やベトナムのエスペラント出版物を読んで、私と同じくらいの少年たちが、祖国を守り、親兄弟をまもるため、敵国日本の侵略に反対して戦っていたことを知り、私は何と愚かなことを考えていたのか、と反省した。

上海の青年とは手紙で、ベトナム訪問のときは最初の挨拶で、間違った考えを持っていたことを詫びた。ここで提起されている五原則は、国際活動をする日本人が、自己の基本的な態度として持つべきだと思っている。

 「中国外交は固定した“教条”でうごくものでない」ということを、私も各国のエスペランチストたちと交流する中で感じた。 ある種の先入観を持ったり、自分のせまい常識で相手を見てはいけないのだ。

「東南アジア訪問が野党外交の第1歩」のなかにある、相手側と十分連絡が取れなくても、誠意をもって接すれば、相手がそれに応えてくれる、ということを何度も経験した。そうした経緯の上でつきあうことができれば、こんなたのしいことはない。

党幹部の人たちは、エスペラント語を学ぶことが必要だと、私の経験から言える。異国を訪ね、分かり合えることはとても楽しいし、自分の世界がひろがっていく。

原水爆禁止世界大会の国際会議でも多くの外国人と交流できた。.多くの若者は、できるだけ条件を作って国際会議から参加したほうがいい。この国際会議には日本代表も多く参加しているが、簡単な挨拶も出来なくては、友好親善に役立たない。国際会議で、ダンマリ、むっつりしていることは真面目だと受け止められても、友好親善はすすまない。外国人に向かっても自分の意見をはっきりいえるようにしておくことが大事だ。

今後、国際交流が活発になるから、その時になっては間に合わない。若い幹部には外国語の素養を身につける第1歩として、エスペラント語を学ぶべきだという持論をもっている。(つづく)

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不破哲三著「私の戦後60年」を読む(14)

第13章「海外派兵と憲法改正」

 ソ連の崩壊が世界情勢に大きな変化を与え、残った超大国アメリカが世界を支配するとみえたが、世界の人民の力と世論は、そのような方向に進まない偉大な力を発揮した。

アメリカに追随した日本の保守勢力と自衛隊は、最初に掲げた「専守防衛」の枠をはみ出して、海外派兵のための臨時立法を成立させたが、憲法9条とそれを支持する国民世論がそうさせない力に成長している。

 この章で最初に論訴訟している「時代遅れになった日本の自衛隊」では、ソ連を仮想敵国に見立てて装備を拡充してきたが、そのどれもがその後の状況変化に合わず、いたずらに国民の税金を役立たない兵器をアメリカから買っている。陸、海、空の自衛隊の装備は次第に時代遅れになり、いたずらに、日米の兵器産業を儲けさせるだけになっている。

日本政府は「日本有事」「極東有事」を意図して日米共同作戦のために準備してきた。今年戦後65年を迎えて、国民の、戦争そのものを否定する活動がつよまっている。

オバマ米大統領が核廃絶に向けた意思を明確にしたので、日本の被爆者をはじめ、世界反核勢力を勇気づけた。核廃絶の運動は、国連主導のもと、核兵器削減検討会が開かれ、世界から多くの市民が参加して交流したことは、そのことを物語っている。

一方、2001年9月11日に起こった同時多発テロに対し、アメリカはその元凶がアルカイダとビンラディンだといってアフガニスタンへ侵攻した。

「医者井戸を掘る」の著者中村哲さんは、国会の参考人質疑で、武力では何も解決しないと強調した。

不破さんは言う;

「小泉首相(当時)はアメリカのアフガン侵略を正当なものとして、これを支持した。10月には「テロ対策特別処置法」を国会に緊急上程した。

11月には海上自衛隊が出動、12月の初めには、インド洋でアメリカの感染に対する給油活動が開始された。さらに翌年12月に、虎の子のイージス艦「きりしま」をインド洋に派遣して、給油活動を護衛させることになった。

それまでは国連の平和維持活動に協力するために出動することがあったが、米軍の戦争に協力するための海外発動は、歴史上初めてだった。

さらに2003年3月に「イラク特別措置法」が成立させ、アメリカのイラク戦争がはじまると、小泉首相は、即日これを支持した。アメリカが先制攻撃を起こす度に、新しい特別立法で、戦争への道を開く、―これが、小泉内閣が実行してきた「海外派兵」の特徴だと。」

現在、憲法9条を守る国民運動は、全国に7500の多様な組織がつくられ、活動している。

2001年9月11日の事件から端を発してアフガン・イラクへの戦争への道は、決して過去の出来事として見過ごすことはできない。

世界貿易センタービルを旅客機による爆破事件は、当初から、このテロ攻撃に疑問が出されていたが、私はこの章を読んでから、改めてITで、その経過を調べていたら、このセンタービルの爆破については、数々の疑問が投げかけられていた。9年たった今、非常に大がかりなブッシュ大統領政権下の「陰謀説」であるとする情報が有力になっていることを発見した。(つづく)

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2010年10月30日 (土)

不破哲三著『私の戦後60年』をよむ’13)

「第12章の「北方領土」交渉はなぜうまくゆかないのか」を詳しく、なぜそうなったかを綿密に調べて論証している。

1991年にソ連が解体した以後、日本の細川、橋本、小渕、森、小泉の歴代首相は、エリツィン、プーチンと2003年まで、7回にわたって会談を積み上げてきたが、事態は少しも改善されなかった。その後に続く内閣と首相は、手ごわい問題にさわるとことを恐れてか、全く気にも留めずにきたというのが真相で、著者は、まずそこから問題の本質をときあかしている。その論拠は、幕末・明治に確定した日本とロシアとの国境問題から説き起こしていて、日本外交史の始まりまでさかのぼっている。

 第2次世界大戦の末期に連合国側の首脳たちが、日本を降伏させた後の領土問題については、日本が侵略した領土を全面返還させることをきめたが、同時に、スターリンのヤルタ協定に違反した領土拡大については、身勝手な要求を認めてきたことだ。そして連合国に無条件降伏した日本は、屈辱的ともいえる態度でそれに迎合した結果だといえる。

著者は、まだ国会議員になる前の1969年3月に、この問題についての基本的な方針を確立し、公表しており、国会に出てからは部分的に取り上げた。さらに1981年の国会で、1時間にわたって鈴木善幸首相や伊東正義外相に問いただし、「南千島は千島にあらず」論でがんじがらめに縛られた、前途の見えない領土交渉の実態がうきぼりにした。そして、サンフランシスコ条約からすでに30年もたっているのだから、いつまでも間違った条約に拘束されないで、国際的な道理と日本国民の利益に立って、領土問題を解決すべきではないか、と提案している。

スターリンは、第2次世界大戦の前後、西に、東に不当不法な領土拡張を図った。日本から千島列島を奪ったのもその一つで、西においては、ベルラ―シ、ウクライナ、モルドバなどが独立して解決している。ソ連が中国に確保した諸権益はとっくに、中国に返還されている。

最後に残されているのは、千島列島だけであり、相手の出方を待つのではなしに、道理と根拠を示して解決する責任が日本側にあることを強調している。(つづく)

面白いニュースが入ってきた。しんぶん「赤旗」日曜版10月30日付の2面で、「読売」に不破さん登場というタイトルで、11月1日から「時代の証言者」が毎週5回、30回にわたって連載されると紹介している。

日本経済や領土問題は古くて新しく、日本国民が道理と世界平和確立の信念に基づいて解決していなければならない問題だ。同時に日本国民がどんなところで苦しめられているかを、世界に向かって発信することになる。

私のような無名な労働者が、不破さんの「戦後60年」を説明するよりもはるかに、大きな反響を呼び起こすことはまちがい。一人でも多くの方が注目してくださることを希望する。

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2010年10月29日 (金)

不破哲三著「私の戦後60年」を読む(12)

「第10章 ソ連の崩壊、その後の世界」の最初の小見出し「世界を驚かせた『ソ連崩壊歓迎』声明」の載った新聞「赤旗」を見た時、本当にびっくりした。「よくここまで思い切って言いきったな!」と。

でもすぐに納得したこともあった。それは、終戦後中国東北部にいた日本兵がソ連軍の捕虜になり、シベリア奥地で建設作業に従事させられ、食糧不足や寒さのために、帰国を前に死亡してしまった日本兵がたくさんいたこと。[敗残兵だから仕方がない]とは言え、昔の奴隷のように扱われて死んでいったことを考えると、その兵士たちの無念な思い、帰国を待ちわびる家族の悲しみをドン底までに突き落としたやり方が、果たして、本当に労働者の国の政府がやることなのか、と感じたからだ。私の父はよく言っていた、日本には日本のやり方があるはずだと。

私が戦後に一番先に読んだ本は、仙花紙に印刷された「唯物弁証法読本」だった。その後に読んだのは、マルクル・エンゲルスの書いた「共産党宣言」。「ヨーロッパに共産主義の怪物が動き回っている」という文章が冒頭にあっておどろいた。次に勉強したのは、スターリンが書いた「レーニン主義の基礎」という本だ。その次には、「ソ連共産党史」、「レーニン主義の諸問題」で、この中には、ソ連共産党大会決議や中央委員会の決議等があった。

ソ連共産党史を勉強することは、若い党員にとって最もやるべきこと、と教えられ、また、共産党とは何か?納得なしに活動もできないから夢中になって独習した。

1951年2月から、非合法化された党幹部の連絡係を務めながら、毛沢東の「矛盾論」「実践論」、続いて三一書房から出版された「毛沢東選集」全5巻を全部読んだ。

あるとき、お世話になっていた家の奥さんが「東宝争議のときに、来なかったのは、戦車だけだった、というが、もし実際に戦車が来たらたたかって、勝つことができるんですか」ときかれた。答えることができなかった。当時は、党を指導していた理論は、極左冒険主義の思想であった。

別の家では、お母さんらしき人が、私がまだ20歳になったばかりで、共産党員だと知ると、「怖くないの?」。あなたのような人がなぜ共産党に入って活動しなければならないの?」と問われたが、これもすっきりするような答えをみつけだせなかった。

やがて外国の党のことばかり勉強していて、ほんとに革命を成功させることができるのか。もっと日本の歴史や現実をしっかり勉強すべきではないだろうか、と活動家の学習会で、そのような意見がでだされた。

共産党は一枚岩だといわれながら、主流派・国際派に分かれていて、勝利にみちびくことができるのか。いまの活動は、大衆から孤立していくばかりではないか、と模索している時、六全協が開かれ、極左冒険主義が誤りであり、党が団結していかねばならないことが明白になった。

主流派・国際派が同じ地域でいがみ合っていて、何ができるのかを、私は福島県浜通りの活動で感じた。訪問先の人たちの様々な意見をメモし、それをガリ版印刷して配ると、こんなことを言っても大丈夫か、と心配してくれる人もいた。「やっと自由にものがいえるようになったな」と、喜んでくれる人にも出合った。

この章の中にある「スターリンの大国主義」では、こんな思い出がある。

1965年夏、日本で初めてとなるエスペラント世界大会が開かれたとき、ソ連から2名の幹部が派遣されてきて、平和の分科会で、ソ連の「部分確定条約」を支持する決議を要求した。この会の実行委員の一人であった私は、他の委員と相談して、わすか2~3時間しかない会で、部分確定条約について、ソ連を支持するのはやめよう、それよりもアメリカの侵略に対して、たたかっているベトナム人民に激励のメッセージを送ることに賛成か、反対かを論じて、アジアの平和をかき乱すアメリカへの批判をつよめようと。私はこのとき、まだエスペラントがよくしゃべれなかった。友人に頼んで発言してもらい、エスペラントの「緑の旗」に署名をして送ることに出席者全員が賛成してくれるように頼んで歩いた。

 ソ連共産党を世界革命の指導者として位置づけ、それに反対するどんな小さな動きも圧迫する動きを感じたことがある。

「プラハの春」で騒がれたチェコスロバキアの平和評議会議長ト―マス・バルダさんは、エスペランチストで私たちが送る機関誌『緑のハト』をよく読んでくれていた。そして1通の手紙をもらった。そこには次のようにかいてあった。

「日本の皆さんの連続したべトナム支援運動に心から賛辞を贈る。私たちの国では、あなた方ほど自由ではない、しかし社会主義国なのだから1回くらい支援運動をやろうと呼びかけて、やっとプラハの町で1日だけベトナム支援の会合を開くことがきた」と。

東ヨーロッパ5カ国の社会主義国がプラハに戦車を侵入させた。1996年に私はプラハでのエスペラント世界大会に参加したが、その時、5カ国の軍隊は、どこも砲撃せず、千塔の都は無傷だった。

東ドイツ・エスペラント連盟の議長で、言語学者D.D.ブランケさんの家に泊めてもらった時、彼は言った。「ベルリンの壁がこわされ、市民が自由にベルリン市内を闊歩できるようになったとき、私は西ベルリンにあるソ連軍進駐の記念碑などは全部壊されていると思った。でもそれらは一つも壊されずに残っていた。

そして、東ベルリンにあるソ連兵の鎮魂碑を右翼が破壊しようとしたとき、ベルリンの全市民が、その広場に集まって、記念碑を守ってくれた。考えていたこととは逆に、自分の考えを自由に言えることの大切さを痛感した」。(つづく)

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2010年10月28日 (木)

不破哲三著『私の戦後60年」を読む(11)

「第9章 北朝鮮問題―真相解明と解決への探求」

北朝鮮に対する私たちの不安は、この国が核廃絶を目指すための6カ国協議の場から離脱していることで、それを理由に、日本政府はアメリカとともに、北朝鮮の核攻撃に対して迎撃ミサイルできたから打ち上げた核ミサイルを撃ち落とす実験に成功したという宣伝が一時期頻繁に流された。

その時間的誤差は3分以内とされ、多くの識者が現実的でない、と反論したことから、最近はあまり迎撃ミサイルについては報道されなくなったが、日本政府も自衛隊も既成の事実として準備をすすめていいるのか、一時は、東京新宿御苑の公園に、その迎撃用ミサイル発射装置なるものまで持ち出して大騒ぎした。しかし、その割には、日本政府の6カ国協議再開の努力は、相手側の出方を見守るという域をでていない。

もる一つの問題は、この章に最初に出てくる「日本政府がはじめて拉致疑惑の存在を認めた瞬間」として、1988年3月26日の参議院の予算委員会の質疑で、当時の橋本敦議員の追及に、梶山国家公安委員長と宇野首相が拉致問題が起こっていることをやっと認めたことだ。

しかし、事件はもっと古い。1977年当時13才だった横田めぐみさんが、学校帰りに新潟の海岸から拉致され、2002年9月、突如として北朝鮮のピョンヤンを訪問して日本人拉致被害者13人のうち8人は死亡し、5人が帰国するまでに10年以上かかっている。どうしてそんなに時間がかかったのかの説明を国民は聞いていない。しかも、その後の情報では横田めぐみさんはうつ病にかかり自殺した、と発表され、遺骨が返されたが、DNA鑑定では、めぐみさんのものではないことがわかり、一方、めぐみさんは、北朝鮮の諜報機関の男と結婚させられ、娘をもうけたことなどが明らかにされながら、すでに23年の立っているのに、いまだ解決されないでいる。

横田ご夫妻は今川崎市に居を移し、川崎平和館には、めぐみさんの情報を伝える各種の出版物が展示され、また、ご夫妻は求めに応じて、一人娘のめぐみさんを取り戻すために必死の努力をされているのに、日本政府の取り組みは生ぬるい。

不破氏は「日本の政界と北朝鮮との異常な関係」として、橋本敦議員の質問に。政界はほとんど反応しなかったこと、テレビでも取り上げなかった、と指摘している。それは日本共産党をのぞく「オール与党」体制のもとで、共産党の言動をできるだけ無視するという風潮がつよくあった事、同時に、北朝鮮と日本政府との間でたいへん奇妙な関係が生まれていたから、と指摘している。そのいきさつは原著をよんでほしい。

要約すれば、1967年12月、金日成首相は、「南朝鮮で革命的大事変が起これば、これを主動的に対応する」とのべたのだ。当時、日本共産党はこの言明が危険な方向に広がっていくことを懸念し、代表団を派遣し、金日正は、南進の方針を撤回した。しかし、北朝鮮側は、盗聴器をしかけて、日本共産党代表団の動向を監視することまでやったのだ。

また、そのころから、金日成の個人崇拝がひどくなった。ある日、新聞配達で親しくなった在日朝鮮総連江戸川支部の方から、日本語版「朝鮮新報」を見せられて、大変おどろいた。

その1面トップに、は金首相が視察に行く先ざきで 手の裏をかえすように難問を解決したことが書かれてあり、わが偉大な首相は、朝鮮人民ばかりでなく、世界革命の領袖であると、ご丁寧に三段に書き添えてあって、現場の仕事で苦労いしている私にとって、とても信じがたく、おかしく感じた。これが個人崇拝の言動だと思った。

日朝の共産党は、その後「冷たい関係から敵対関係」と進んでいく。そうしたもとで、日本共産党は、政府間交渉を提唱した(1999年)。しかし、金日成が死んだ後でも、両党の敵対関係は元に戻らず、北朝鮮の事実上の外交代表である朝鮮総連の祝賀会で「6項目提案」をしたが。

拉致問題やミサイル問題を含めて、いまだに国交を回復しない、北朝鮮問題は日本政府が真剣に粘り強く交渉をしなければならない問題なのに、相手側が動かないからとだけで、問題をずるずると先延ばしする日本の外交姿勢はやがて国民からみはなされていく。(つづく)

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2010年10月27日 (水)

不破哲三著『私の戦後60年」を読む(10)

第8章「臨調行革と“ルールなき資本主議」の項では、「70年代には国会論戦は“真剣勝負”だった」からはじまる。この国会論戦に背を向ける事件が発生した。それは次の小項目「社公合意が国会状況を一変させた」の中でしめされている。

創価学会の本部はいま、都内のJR中央線信濃町駅を出て、明治公園と反対側を歩いていけば居丈高の建物のなかにある。その間の道には、黒い背広を着た、笑顔の見えない男たちがあちこちに立っていて、異様な雰囲気をあたえている。

創価学会が集めた浄財は、この団体が宗教団体であるが故に1円の税金もはらなっていない。あるあまりの資金で、到るところに、文化会館という創価学会専用の建物ができており、選挙の時には、ここがお祈りの場という名目で、選挙活動が行われていることは、すでに公然の秘密であり、宗教団体が政治に関与することは、憲法違反の疑いがあり、かっての公明党委員長矢野淳也氏が告発して裁判になりかけたが、その後は音沙汰がない。公明党はこの創価学会をバックとして成り立っていることは世間周知のことだ。

かって、私は先輩の由比忠之進さんがベトナム反戦で焼身抗議をしたあと、いろいろなマスコミから取材をうけた、そのなかに、創価学会だったと思うが、取材をうけた。後で記者から、社の都合で、この取材記事はキャンセルになったと知らせをうけた経験がある。もちろん、まともに紹介されるとは、はじめから、思っていなかったので、そのままにしたが。命をかけた人の行為を取材しておいて、社の都合で掲載を断るという、この宗教団体に対しては、いまだに忌を感じている。

この社公合意の唯一の目的は、日本共産党の国会における活動を妨害するためだった。不破さんは「臨調行革」は財界・大企業の“名誉回復”キャンペーンだったのでは?と筆をすすめ、「なぜ、“名誉回復”が必要だったのか?」と問うている。

80年代になると日本社会は、小泉純一郎が言うように、「民間でできるものは民間で」と言って、国が当然負担しなければならない福祉事業の予算を削っていった。そのために国民一人ひとりに対する憲法に保障された人権は、無視されるようになった。そのために国民は、民営化が万能ではない、と感じるようになったと。

そして、臨調行革のトップランナーともいうべき第2臨時行政調査会会長土光さんが、メザシを食べて、極めて質素な生活をしていることが各新聞に報道された。

私の記憶がまちがいなければ、そのチャンピョンの土光さんは、終戦当時、東京芝浦電気鶴見工場長だった筈である。当時、父がこの工場の下請けの組長で、ステンレス製のタービンのラッパ型空気吸い込み口の製作で、信用を得ていた関係で、私の家が工場に比較的近く、目立たないことから、物置にも、入り口の帳場にも梱包されたままの10馬力、20馬力のモーターが数十台も隠匿されていた。

これには、あまり人相の良くない、ずるがしこい面相の田中という男が関与していた。土光さんは一度だけ、このモーターを見に来たことから、私の父母は、メザシの写真を見て、あのときの土光さんだといっていた。遠いところにいる人という風に感じた。

「まず税制改革から財界の“実益”追及へ」「日本社会の現状は『ルールななき資本主義』という言葉を、私は無条件に受け入れる。そんな労働者の生活を、私は50年以上つづけてきたからだ。(つづく)

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