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2010年12月 6日 (月)

黒と白のピエタ(2)

この芝居の幕開け公演を見ようと意気込んでいたが、先約があって果たせず、千秋楽前日の夜の公演をみることになった。そのおかげで円熟した芝居を見ることができた。

 物語は1890(明治23)年ころからはじまる。この年、日本では初めてとなる「大日本帝国憲法」が成立施行された年だ。

ケーテとカールが住んだ北ベルリンは、いま私が住む川崎南部と同じだ。戦前から戦後の経済復興期に多くの労働者たちがここに集まってきた。産児制限運動も戦前から取り組まれて、当局の弾圧をうけた。そこでは、特高といわれる秘密警察が目をひからす時代が、終戦まで続いた。

戦後は無産者診療所の歴史を継ぐ病院や診療所が開設された。日本の労働者ばかりでなく、韓国朝鮮からも、フィリッピンや遠く南米からも働く人が集まってきた街だ。

1次世界大戦で、ケーテの長男は、片腕を無くし、次男は戦死する。そして第2次世界大戦では孫まで戦死する運命にさらされる。

19387月、ケーテのそれまでの活動は、反国家的、反ヒットラーの活動として禁止された。またゲシュタポ(ドイツ秘密警察)の尋問と弾圧をうける生活が始まり、くらい谷間のごとき生活を余儀なくさせられた。

1945年春、ドレスデンの疎開先で、夫のカールと再会し、歴史の大展開が間もなく始まろうとするところ(第14場)で終わる。

私はこのフィナーレより、第13場のゲシュタポの尋問を受ける場面こそが、最後の山場と見た。なぜなら、この芝居を見る前日、ベルリンのD.ブランケ博士が、「お前のアドレスをみつけたぞ、相変わらず、左翼の活動をしているのか」とメールをくれて、インターネット・プロバイタ―のGoogleに紹介されているケーテの芸術作品を全部見ることができるアドレスを教えてくれた。その半分をやっとダウンロードし、脚本家の和田庸子さんに渡すことができた。

ゲシュタポ将校が最後に「…では、お体を大切に」という短い挨拶のなかに、ケーテが69年の生涯に貫き通してきた民衆のための芸術家への尊敬の挨拶があった。この言葉にこそ歴史を貫く深い意味があったと気付いた。

 

日本に比べると、ドイツはいち早く周辺の国々にたいし侵略戦争の誤りを認め、謝罪してきた。またそれなしに地続きの近隣諸国との友好は実現しなかった。

その一方で、ドイツが生んだ革命的(この言葉が適当かどうかわからないが)、世界の常識ある人なら誰でもが認め、ほめたたえる作品の残してくれたケーテのことを誇りに思う時代がやってきたのだ。本物の時代を暗示したからだ。

日本で初めての上演となるこの芝居を、京浜協同劇団のけいこ場での100人の観客で身動きも出来ないなか、70年を超える歴史を2時間半の上演で見せてくれた演出家や俳優の皆さんのなみなみならぬ努力にたいし、心からの挨拶をおくる。

そして、もし叶うことなら、来年夏の世界エスペラント大会がデンマークで行われるのを機に、もう一度ベルリンを訪ね、旧友たちにも会い、ケーテ・コリヴィッッ美術館を訪ねたいとおもっている。(2010-12-06

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