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2010年12月18日 (土)

レッドパージ60周年の記念集会に参加する

201年12月11日、東京でレッドパージ60周年記念の集いが開かれ、私も初めて参加しました。この集会には全国から250名をこえる人々が集まったことを知って、とてもうれしく感じました。会場の受付にはそれぞれが年輪を感じさせる白髪の老人に交じって、30代の人も出席していたことは、たたかいの歴史は必ず受け継がれていることが深く印象にのこりました。この集会に先立つ1カ月近く前、高炉会の同志小西悟さんは、92歳で亡くなりました。

私の職場は、日本鋼管川崎製鉄所圧延工場で、戦前から「金と命の交換会社」と恐れられていたところです。家計を助けるための入所した時、母は「すまないね!すまないね!」と繰り返していました。事実、入社後3カ月近くたって、同僚のちょっとしたミスで、私の左足ふくらはぎに大やけどをして、50日も休むことになったことがありました。

この製鉄所では78名の同志全員が1950年10月30日に職場から追放されたのです。組合は総同盟系で「連合国最高司令官の命令だから」という理由でパージを認めてしまいました。

私は思うのです、もしあの時、1947年に施行された日本国憲法をしっかり学び、国の最高法規に深い認識があったなら、別なたたかいがあったのではないかと。法治国家として、思想信条の自由、基本的人権についての理解は、いまほどの理解はありませんでした。

戦後の共産党の革命路線について、暴力革命を方向づける指導や学習がおこなわれていても、発達した資本主義国における民主主義革命についての認識は極めて不十分でした。

ロシア革命についての文献、矛盾論・実践論に代表される中国の武力革命だけが唯一の方法としてうけとめてきました。しかし、日本国民の平和的信条、諸外国の文物も人との交流も素直に受け入れて、自国の向上のために利用して行く国民性を否定するようなことが党の方針であるかのような一面的に指導が随所にありました。

「解雇通告も開封もせず、まとめて突きかえす、相手が受け取らなかったら竿の先にぶら下げて投げ入れる」なんて言う意見がまかりとおっていたのです。

10月30日には職場にもぐって籠城するといっても、私の場合には片番で100名以上いるなかで、パージを受けたのは私一人では、そんな作戦は少しも役にたたなかったのです。不当解雇反対のたたかいを職場毎に籠城する戦術は少しも役立たず、たまり場へ行くと、勇ましいことを言っていた指導部員も早々にたまり場できていました。

その後、全同志は、6カ月間の失業保険で川鉄に不抜の党を建設しようと決意したのです。そして、さまざまなルートから製鉄所内部の支持者に対して働きかけて組織を確立し、運動はすすめられていきました。また、パージを受けた頃、川鉄細部機関紙『高炉』は、たたかいの烽火を高く掲げたことから、警察の発行停止処分を2回、3回と受け、このガリ切りをしてくれていた根本さんは、当局の追及をかわしながら発行をつづけていきました。

私は、国際語エスペラントを1947年ごろから学びはじめ、『万国の労働者団結せよ』のスローガンを実行するために国際文通をしはじめていました。朝鮮戦争がはじまると中国上海の若い漫画家と文通するようになり、「抗米援朝』の色刷りポスターを送ってくれたので、あまりきれいなので現場の休憩室に張ったことから、米軍憲兵に密告されて逮捕されてしまい、これが私のパージの理由です。

東京で仕事するようになって、それから1956年までは国際文通からも離れていました。

私が福島県常磐炭鉱地帯から戻って再び川崎で現場の労働者として働き始めました。石油コンビナートの大型修理工事に参加するために、診療所で健康診断を数名で受けた時、同じパージを受けた友人と再会しました。

川鉄の同志たちは、八丁畷の屑金商の店で働いたり、そろばんのできる人は民商の事務局で働きながら、パージ組で作った『高炉会』の集まりの世話をしてくれていました。それぞれがある程度落ち着いた仕事にありついたのは、1960年の安保闘争がおわった後だったでしょう。

当時の池田内閣は、所得倍増計画をかかげて10年後には所得を10倍にするといきまいたのです。結果として労働時間が長くなり、私は週2回くらい徹夜の仕事で稼ぎを働き出しいていたのです。

すでにかきましたが、中学2年の時に予科練に志願し、島根県宍道湖畔で、901海軍航空隊玉造派遣隊の16歳の通信兵として大本営から放送される暗号電報を受け取る毎日でした。

昭和20年7月28日に米軍グラマン戦闘機が落した小さな爆弾が整備兵の兵舎を直撃しました。機銃掃射を受けて急いで田んぼに伏せて立ち上がった時、目の前で爆弾が落ちたのです。これが私に戦後、平和のために生きていく決意をかためさせました。

旧制中学を卒業して働きはじめた時、エスペラント語を横浜国立大学経済学教授から2回ほど手ほどきをうけ、その後、大島義夫さん(在野の言語学者)の援助をうけてきました。

1967年11月11日、由比忠之進さんがベトナム戦争反対、沖縄の無条件降伏を要求して焼身抗議、70年エスペランチスト平和の会を作り、会長として国際的な運動を続けました。

1971年10月、戦時下のベトナムを訪問、以後現在まで12回訪越し、ベトナム点字図書館プロジェクト・マネージャーとしても働きました。

そして今も会のHPを続ける仕事をしています。これが私のエスペラントを利用した国際連帯の活動です。エスペラント語を通して、ベトナムばかりでなく、イギリス、ドイツの旧友たちと文通を続けています。

来年7月には、デンマークでは世界大会があり、もう一度訪ねたい国です。20127月末に、ハノイで世界エスペラント大会が開かれ、参加する予定です。

111日にすぐ下の弟が亡くなりました。78歳でした。12月に入って3番目のひ孫娘が生まれました。孫やひ孫の成長は、弱りかけた体に鞭打って生き抜く勇気を私にあたえてくれています。

人は死に、人は生まれ、その連鎖の中で生きていく力をもらえる喜びを感じています。

今年は厳しい寒さですが、十分に健康に気配りをして、新しい時代の到来のために精一杯生き抜きましょう。良いお正月をむかえてください。

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コメント


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10万でオレが売れちったた!!!!!

つか生でするのって俺が想像してたよりすげぇ!!!!
肉マンみたいに柔らかくて温かいし、溶けるかと思ったwwwww
「テンガと同じ」とか考えてたオレバカスwww(ノ∀`*)

投稿: すげえな、マジ売れた。 | 2010年12月19日 (日) 01時02分


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昨日このサイトで7万ゲッツしたですよ!!!!
初めはおなに一見るだけだったんですけど、ボクが我慢できなくなってきたら
笑顔で足広げてお迎えしてくれました~!(ノ*゚∀゚)ノ

投稿: 激アツなお姉たま!! | 2010年12月25日 (土) 21時15分

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