2011年2月 1日 (火)

「ドラマ「私は屈しない・・・」

 

131日夜9時から約2時間(コマーシャルも入る) TBS-TVは、月曜ゴールデンタイム放送として「私は屈しない~特捜検察とたたかった女性官僚と家族465日」というドラマを放映した。

 これは、つい半年前まで尾を引いた、障害者団体への郵便料割引制度を悪用した事件で、厚生労働省の女性局長村木さんが逮捕され、起訴されたが、裁判で無罪となったことを、作家の江川紹子のインタビュこー記事にした。これを二人の脚本かと演出家が事件から4カ月余りでドラマ化され、放送されて、見ごたえのあるものとなった。

その後、検察側の証拠改ざん事件として、これはこれで、検察内部の腐敗事件のような内容を帯びてつづいているが。

 戦後のいくつかの重大事件や私自身がかかわったごく小さな事件とも関連していたので、気を抜くことなく最後まで見た。 そして、被告の村木課長が毅然たる態度で無実をうったえつづけ、検察側の描いた犯罪図式を見事に覆して無罪に到る。

 

 今政治家も官僚も、ご都合主義で、その節操のなさは、現民主党政権の動きをみてもがっかりさせられるが、村木課長が、自分は国民の公僕であり、国民のために仕事をすること使命としている、というごくあたり前の事を貫くことに、戦後70年近くたっても、特別な努力をしなければならないことに憤りを覚える。

 改めてこのドラマを再見する機会をつくりたい。また221日に同じ局の予定されているドキュメント番組についても期待したい。(20110201)

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2011年1月20日 (木)

今は亡き友へ

弔  辞

エスペラント平和の会熊木秀夫

謹んで、この弔辞を渥美幸次朗さんの御霊前に捧げます。   

 ダンボールの片づけをしながら、この寒さに負けずに頑張りぬこうと言葉を交わししたのは、あなたが亡くなる7日の朝でしたね。

私は、あなたのお店や近所のお店から出るダンボールの片づけを、あなたにお願いしてから今年で4年目になります。

「こんな仕事をしたって1円の稼ぎにもならないよ」と貴方は言い、私は「自分の体は、労働を通じて造られてきた。手術後のリハビリとして、筋力をつけたいから、やらせてほしい」とおねがいしました。

一時、ダンボールの引き取り値がキロ9円の値がついたときは、ガソリン代が出て少し余ると喜びあいましたね。それが中国のオリンピックが終わると1kg1円にさがってしまいました。

その時、二人で考えたことは『アフリカの砂漠に木を1本植える目標で頑張ってきたのだから、10年もやっていれば、きっと良いニュースが聞ける』、『誰も二人がアフリカの砂漠に木を植える夢を追いかけて、こんなことをやっているなんておもわないぞ』なんて言いながらもつづけましたね。

1年前、あなたの出身校・早稲田大学で、日本熊森協会のシンポジウムがあることを知り、二人ででかけていきましたね。その時、日本の森が外国人に買われてしまう! 日本でもイギリスのように、ナショナル・トラストをつくり、人間の命の水を守ってくれている熊が住める奥山の自然を残す運動に参加しましたね。

今年になって貴方は、実践自然保護団体・日本熊森協会会長から寄付金応募への感謝のお礼状をもらい、私は『くまもり通信』から、NHKテレビでも紹介された三重県大台町池の谷676ヘクタールの山林を全部買い取り、熊やその他の動物が永久に住めるようになったことを知り、日本の自然と水資源を守る活動に共に参加できたことを喜びあいましたね。それは、1週間前のことでしたね。

そんな話をゆっくりすることもなく、あなたは突然倒れ、御家族や御親戚の方、一緒の働いてくださっている方や私も、あなたの元気な声を聞くことができなくなってしまったのです。会う人毎に「何故、どうして」と聞かずにはいられない、みなさんも同じ気持ちです。でも一番驚いているのは、あなた自身ではないですか?

私には、あなたの声がきこえます。「おれはこの通り元気だ」と。

あなたが亡くなったことは、私たちに大きなショックをあたえましたが、だからといって私たちは悲しんでなんかいません。あなたは、いま千の風になって、私たちの事を、空から見守ってくれているからです。

私は7年前、50年ぶりに、川崎の住民となり、ベトナムの枯葉剤障害者支援の活動をつづけてきました。あなたはそれを知って、ある時はお金で、ある時は店の品物で支援をしてくださいました。初めてあなたのお店の前に立ったとき「何と輝かしいお顔をしている人だろう」と見つめて、私はあなたの親友の一人になりました。

人を思いやる優しいあなたの心を、私は決して忘れません。あなたが教えてくれた、常にまわりの方々に感謝し、喜びを分かち合う活動を、これからもつづけていきます。

あなたの、にこやかな顔をおもいうかべながら、お別れの言葉の代わりに『千の風になって』を歌って、あなたに捧げます。(2011-01-13)

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今日は大寒

 朝のラジオ体操に参加した時,早咲きの桜の枝に1輪の花をみつけ、みんなが近づいて眺めていた。私も後からその花に近寄って、春が来ていることを感じた。

ついでに、公園の遊歩道の周りに植えてある若い河津さくらの枝をみると、それぞれにつぼみが緑色になり、吉野さくらの黒く固いつぼみに比べて、春への始動がはじまっていた。

いつまでも寒さにちじこまってはいられないぞ、と思ったが、今日は午後になっても両手のしびれが取れない。寒明けの2月4日まではまだ1週間はある。年取った人間の体は、自然の変化より立ち遅れているのか、と改めて感じる。

 私が中学生になった昭和18年(1942)の1月8日の小寒の日から大寒を迎え、寒明けになる2月4日まで、寒稽古に出る私のために、父母は、寒い寒い朝早くから飯を炊き、弁当をつくって持たせてくれた日のことをおもいうかべる。

 

いまにして親とはなんとありがたい存在なのかとおもう。その子供たち7人も、いま残っているのは、姉と私と末の妹の3人だけになってしまった。

戦争や空襲の災難からも生き抜き、行く度かの苦しい生活の中でも生きてこられたことに感謝しなければならいが、とりわけ私たちを大事の育ててくれた両親への恩返しの感謝がまだできていなかったことに気づかされる。両親が亡くなってすでに30年以上になるのに。

 自然も人間も、みな先輩たちの骨身を惜しまぬ生業の上の成り立っていることに、改めて心からの感謝をささげたい。(2011-0-20)

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2011年1月 6日 (木)

2011(87回)箱根駅伝復路の戦いを見て歌う

力一杯 走りぬいて タスキ渡す 選手たちの さわやかな顔

たくさんの サポーターに囲まれて 駅伝選手ら、走り抜ける

足の運び、腕の振りいいぞ、まだ1年生の 早稲田の選手(7区の三田君)

トップを 走りぬいた 喜びか 目頭押えて 崩れる選手

走りきり 応援に謝する 選手あり リズミカルな 足取り残して(上武大選手)

青春を かけぬけていく 選手達 燃え上がる 応援の声 満ちるなか

年ごとに ガードする 白バイの主にも 新しいドラマが生まれる 

一人ひとりの 選手にドラマあり 箱根駅伝 87年の輝き

良き相手 良い記録も 相手あってこそ 勝利の喜びは すべての選手に

きつかった 寒かった 長かった 誰もが耐えて 新しい記録

みんなかけぬく 頑張りぬく ただ一人の 脱落者もなく

  

勝利の涙、悔し涙、テレビ通して 我も涙す 箱根復路のたたかい

(2011-01-03、87回 箱根駅伝復路のテレビを見て)

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2010年12月26日 (日)

うれしいニュースが飛び込んできた!

女性カメラマン岩堀照代さんといえば、日本よりベトナムでよく知られている写真家です。

10年前の2000年に友人と二人でベトナムを訪ねて、彼女の考えが変わったという。長いベトナム戦争にも関わらず、ベトナムは美しい自然を持つ国に生まれ変わっていた。生前のホーチミン大統領は言った。『戦争に勝利したら、ベトナムを10倍もうつくしい国にしよう!』と。

 戦争が終わったのは1975年、それから25年、ベトナムの大地はすっかり緑におおわれていた。人々の生活はいまだ貧しく、大きな困難が横たわろうと、それにひるまず、笑顔をたたえて暮らしている人の生活ぶりは、一人の日本人主婦の目に大きな感動を与えた。

 彼女は、カメラを持って北から南までバイクタクシーに乗って駆けずり回った。決してプロのような穴場を探して撮ったものではない、ありふれた写真の中に、見る者に感動と喜びをもたらすのは、岩堀さんの天性に支えられている。

ベトナムの自然とそこに生きる人たちの感動を与える姿を撮ろうと、取り組んで、東京のフジフォートギャラリーに展示されて以来、彼女の写真はベトナム人びとにも感動をもたらした。

 私も知っている。1971年、戦火の中のベトナムを訪問した時、祖国の運命と共にする人々は、質素な衣服に包まれながら、化粧のない女性の顔は、東京のどんな美人よりも美しかったことを。

自分たちの祖国が厳しい現実に晒されても、決してひるまない人間の素晴らしい姿がそこにあった。その美しさは、未来を信じ、指導者を信頼し、仲間との深い連帯感から生まれたものだと気がつくまで、そう長い時間はかからなかった。私はベトナムの人々の不屈のたたかいが終わる日まで、そのことをまわりに人たちに伝えていった。

 初めてベトナムを訪問した岩堀さんは、困難を克服して勝利を勝ち取った人びとの言うに言われぬ喜びにあふれているのを見たとおもう。彼女はそれをとことん追いかけてカメラにおさめてきたのだろう。

20041月から9月末まで、私はベトナム点字図書館運営支援に取り組んでいる時、岩堀さんに会った、それは、私が75歳の誕生日を迎えた420日、行きつけの日本料理店だった。その時彼女は、私が最高にいい顔をしていたときを写真にしてくれた。

今年12月になって、私のことが載った20047月の雑誌「ベトナムスケッチ」とともに、彼女の活動を紹介しているベトナム語の新聞の幾枚かの切り抜きとともに、もっとも注目すべきニューを伝えてきた。

「来年17日、東京上野動物園生まれの2歳と3歳の鶴のつがいを園長と一緒に、ハノイ動物園に届けに行く」という走り書きだ。

日本のマスコミもベトナムのそれも注目する中で、岩堀さんが愛してやまない人間のうつくしさ、日本人が愛してやまない鶴を連れてベトナムへいくんだ。私も、そして多くの日本人もこのニュースを聞いて飛び上がって喜ぶだろう。(2010-12-26

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2010年12月18日 (土)

レッドパージ60周年の記念集会に参加する

201年12月11日、東京でレッドパージ60周年記念の集いが開かれ、私も初めて参加しました。この集会には全国から250名をこえる人々が集まったことを知って、とてもうれしく感じました。会場の受付にはそれぞれが年輪を感じさせる白髪の老人に交じって、30代の人も出席していたことは、たたかいの歴史は必ず受け継がれていることが深く印象にのこりました。この集会に先立つ1カ月近く前、高炉会の同志小西悟さんは、92歳で亡くなりました。

私の職場は、日本鋼管川崎製鉄所圧延工場で、戦前から「金と命の交換会社」と恐れられていたところです。家計を助けるための入所した時、母は「すまないね!すまないね!」と繰り返していました。事実、入社後3カ月近くたって、同僚のちょっとしたミスで、私の左足ふくらはぎに大やけどをして、50日も休むことになったことがありました。

この製鉄所では78名の同志全員が1950年10月30日に職場から追放されたのです。組合は総同盟系で「連合国最高司令官の命令だから」という理由でパージを認めてしまいました。

私は思うのです、もしあの時、1947年に施行された日本国憲法をしっかり学び、国の最高法規に深い認識があったなら、別なたたかいがあったのではないかと。法治国家として、思想信条の自由、基本的人権についての理解は、いまほどの理解はありませんでした。

戦後の共産党の革命路線について、暴力革命を方向づける指導や学習がおこなわれていても、発達した資本主義国における民主主義革命についての認識は極めて不十分でした。

ロシア革命についての文献、矛盾論・実践論に代表される中国の武力革命だけが唯一の方法としてうけとめてきました。しかし、日本国民の平和的信条、諸外国の文物も人との交流も素直に受け入れて、自国の向上のために利用して行く国民性を否定するようなことが党の方針であるかのような一面的に指導が随所にありました。

「解雇通告も開封もせず、まとめて突きかえす、相手が受け取らなかったら竿の先にぶら下げて投げ入れる」なんて言う意見がまかりとおっていたのです。

10月30日には職場にもぐって籠城するといっても、私の場合には片番で100名以上いるなかで、パージを受けたのは私一人では、そんな作戦は少しも役にたたなかったのです。不当解雇反対のたたかいを職場毎に籠城する戦術は少しも役立たず、たまり場へ行くと、勇ましいことを言っていた指導部員も早々にたまり場できていました。

その後、全同志は、6カ月間の失業保険で川鉄に不抜の党を建設しようと決意したのです。そして、さまざまなルートから製鉄所内部の支持者に対して働きかけて組織を確立し、運動はすすめられていきました。また、パージを受けた頃、川鉄細部機関紙『高炉』は、たたかいの烽火を高く掲げたことから、警察の発行停止処分を2回、3回と受け、このガリ切りをしてくれていた根本さんは、当局の追及をかわしながら発行をつづけていきました。

私は、国際語エスペラントを1947年ごろから学びはじめ、『万国の労働者団結せよ』のスローガンを実行するために国際文通をしはじめていました。朝鮮戦争がはじまると中国上海の若い漫画家と文通するようになり、「抗米援朝』の色刷りポスターを送ってくれたので、あまりきれいなので現場の休憩室に張ったことから、米軍憲兵に密告されて逮捕されてしまい、これが私のパージの理由です。

東京で仕事するようになって、それから1956年までは国際文通からも離れていました。

私が福島県常磐炭鉱地帯から戻って再び川崎で現場の労働者として働き始めました。石油コンビナートの大型修理工事に参加するために、診療所で健康診断を数名で受けた時、同じパージを受けた友人と再会しました。

川鉄の同志たちは、八丁畷の屑金商の店で働いたり、そろばんのできる人は民商の事務局で働きながら、パージ組で作った『高炉会』の集まりの世話をしてくれていました。それぞれがある程度落ち着いた仕事にありついたのは、1960年の安保闘争がおわった後だったでしょう。

当時の池田内閣は、所得倍増計画をかかげて10年後には所得を10倍にするといきまいたのです。結果として労働時間が長くなり、私は週2回くらい徹夜の仕事で稼ぎを働き出しいていたのです。

すでにかきましたが、中学2年の時に予科練に志願し、島根県宍道湖畔で、901海軍航空隊玉造派遣隊の16歳の通信兵として大本営から放送される暗号電報を受け取る毎日でした。

昭和20年7月28日に米軍グラマン戦闘機が落した小さな爆弾が整備兵の兵舎を直撃しました。機銃掃射を受けて急いで田んぼに伏せて立ち上がった時、目の前で爆弾が落ちたのです。これが私に戦後、平和のために生きていく決意をかためさせました。

旧制中学を卒業して働きはじめた時、エスペラント語を横浜国立大学経済学教授から2回ほど手ほどきをうけ、その後、大島義夫さん(在野の言語学者)の援助をうけてきました。

1967年11月11日、由比忠之進さんがベトナム戦争反対、沖縄の無条件降伏を要求して焼身抗議、70年エスペランチスト平和の会を作り、会長として国際的な運動を続けました。

1971年10月、戦時下のベトナムを訪問、以後現在まで12回訪越し、ベトナム点字図書館プロジェクト・マネージャーとしても働きました。

そして今も会のHPを続ける仕事をしています。これが私のエスペラントを利用した国際連帯の活動です。エスペラント語を通して、ベトナムばかりでなく、イギリス、ドイツの旧友たちと文通を続けています。

来年7月には、デンマークでは世界大会があり、もう一度訪ねたい国です。20127月末に、ハノイで世界エスペラント大会が開かれ、参加する予定です。

111日にすぐ下の弟が亡くなりました。78歳でした。12月に入って3番目のひ孫娘が生まれました。孫やひ孫の成長は、弱りかけた体に鞭打って生き抜く勇気を私にあたえてくれています。

人は死に、人は生まれ、その連鎖の中で生きていく力をもらえる喜びを感じています。

今年は厳しい寒さですが、十分に健康に気配りをして、新しい時代の到来のために精一杯生き抜きましょう。良いお正月をむかえてください。

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沖縄からの伝言 第1回

 今年もあとわずかになりました。皆様には新しい年を迎える準備でお忙しい日々でしょう。本土の皆様へ沖縄のことを伝達する「沖縄からの伝言板」を随時お送り致します。沖縄にたいする日本政府のやり方が戦前と同じ状況になってきましたので、沖縄のマスコミの末端にいた者として考えていること、沖縄で起こっていることを「沖縄からの伝言板」としてメールでお送りいたします。ご笑覧いただけると、有り難いです。また、皆様のメール友に転送なされても結構です。

日本の最高指導者である菅直人総理大臣が17日に来沖、米軍普天間基地の代替地として辺野古への押し付けるため、仲井真弘多(なかいま ひろかず)県知事と会談いたしました。その席上、菅直人総理は「辺野古移設がベストではないが、ベター」と主張しています。しかし、4月25日の県民大会には保革を問わず、全市町村長・議会議長、県議が参加して「米軍基地ノー」を突きつけております。もちろん、県議会でも保革とも基地反対の決議をしています。沖縄の県民総意は「基地は要らない」ということです。だが、それでも押し付けるのは、なぜか。

琉球大学の我部政明教授が琉球新報(12月18日)で指摘しているとおり、「総理の来沖は、アメリカにたいして辺野古移設に努力している」というアピールであって、押し付けでなければよいのですが―。しかし、前原外務大臣、仙谷由人官房長官などの来沖もあり、にわかには信じがたいです。仙谷官房長官の地元・徳島県で受け入れない危険物をどうして沖縄に甘受してもらうのですか。「わが身をつねて、ひとの痛さを知れ」という諺を仙谷官房長官に教えて下さい。この国の政治家は劣化、学力低下は深刻な事態です。

現在の沖縄の状況は「沖縄戦前の状況とまったく同じだ」と年配の方々は指摘しています。防衛大綱が発表され、自衛隊の宮古・八重山への配備などが活発化してきました。中国との対立・軍拡を煽っています。尖閣問題など多くの出来事がありますが、今年のもっとも注目されたのは沖縄県知事選挙です。だが、革新の選挙のやり方を見て、私たち「新しい県知事をつくる会」は8月段階で3万票以上の差を予測していました。第1回は、先に沖縄タイムスに投書してボツになった原稿からスタートします。                            

        

基地に固執した革新側の県知事選挙 無頓着で県民意識を無視して大敗

 

「これまで革新に投票していた有権者が棄権した。また各地で自然増加した有権者をつかむことができなかった」。この指摘は長年、選挙広告や有権者の動向調査に携わってきた大手広告会社のOBの分析である。名護市では投票増加した三千七百余が保守側に流れたなど、各選挙区の選挙結果と過去の選挙から割り出した結論を聞いたとき、得票数の相関関係にびっくりした。

 もう一つは、琉球自治州の会代表の大村博さんが会報『清ら風』(第9号)で、県知事選挙の最大の争点は「経済の自立をどうはかっていくか」だったが、革新側は「県民意識の地殻変動に、あまりにも無頓着すぎた」との分析である。

 大村さんは沖縄タイムス社と朝日新聞社との事前の世論調査でも「経済活性化」49%が、「基地問題」の36%を大きく上回っていたことからでも分かる、と述べている。

 さらに「県知事選挙の投票率は6088%で、過去2番目の低さだった。事前の関心度が90%を超えていたことからみて、意識的棄権票がかなりあった。本来革新にいくべき票が棄権にまわった」との見方を示している。広告会社OBと大村さんの分析が同じ結論を出している。

革新側が固執した米軍普天間基地問題については四月二十五日の県民大会、県議会決議で保革を問わず基地撤去を決議している。本紙で沖国大の佐藤学教授は「基地問題は争点にならない」ことを指摘していた。多くの県民もまた同じで、争点にならない基地問題をあくまでも争点にしようとした革新側に戦術的なまずさがあった。基地が争点にならなければ、次にくるものは自立経済であることを有権者はよく知っていたのだ。

 しかし、革新側は基地問題を選挙戦戦術として推し進め、選挙戦の後半になって経済を持ち出す始末。それでは一旦離れた民意は取り戻せない。大村さんが「無頓着すぎた」という指摘である。

また、基地問題に固執する革新側の選挙戦術を見て「みんなで県知事をつくる会」では八月の時点で「3万票の差で革新側が負ける」という予想をしていた。それを回避させるためアジア沖縄経済研究所代表の宮城弘岩氏との組み合わせに努力を重ねたが、結果的には十分受け入れられなかった。

 宮城氏は沖縄では数少ない国際経済人で、「わしたショップ」をつくり沖縄物産を売り込んだ功労者である。ピーク時には一千百億円の売り上げで、これはトップ企業の沖縄電力より百億円少ない売り上げだ。

これまでは振興費など政治頼みの経済政策、米軍基地だのみの基地経済を主張する者がほとんどだった中で、沖縄物産による経済振興に力を注いできたことは特筆すべきことである(『沖縄世論』冬号)。

 海洋博以後に作り出された大勢の失業者。それが今も改善されず続いている。日本一高い7・8%の失業率を無くするためには産業を興して、人々を就業させることである。そのことを県民は考えるべきだと思うが、どうだろうか。 以上

比嘉康文(ひが こうぶん) 68歳。元沖縄タイムス記者。「薩摩の琉球支配から400年・日本国の琉球処分130年を問う会」事務局長

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2010年12月 8日 (水)

寒波到来

① 葉の落ちた さくらの枝に 月かかる。

② 暗き朝 体操しつつ 日の出待つ。

③ 暁の 飛びゆく エアバスに 夢たくす。

④ 寒夜 ケーテの芝居 空腹を耐えさせる。

⑤ リサイクルの テレビ、冷蔵庫 掃除機で ひとり暮らしの春をまつ。

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2010年12月 6日 (月)

黒と白のピエタ(2)

この芝居の幕開け公演を見ようと意気込んでいたが、先約があって果たせず、千秋楽前日の夜の公演をみることになった。そのおかげで円熟した芝居を見ることができた。

 物語は1890(明治23)年ころからはじまる。この年、日本では初めてとなる「大日本帝国憲法」が成立施行された年だ。

ケーテとカールが住んだ北ベルリンは、いま私が住む川崎南部と同じだ。戦前から戦後の経済復興期に多くの労働者たちがここに集まってきた。産児制限運動も戦前から取り組まれて、当局の弾圧をうけた。そこでは、特高といわれる秘密警察が目をひからす時代が、終戦まで続いた。

戦後は無産者診療所の歴史を継ぐ病院や診療所が開設された。日本の労働者ばかりでなく、韓国朝鮮からも、フィリッピンや遠く南米からも働く人が集まってきた街だ。

1次世界大戦で、ケーテの長男は、片腕を無くし、次男は戦死する。そして第2次世界大戦では孫まで戦死する運命にさらされる。

19387月、ケーテのそれまでの活動は、反国家的、反ヒットラーの活動として禁止された。またゲシュタポ(ドイツ秘密警察)の尋問と弾圧をうける生活が始まり、くらい谷間のごとき生活を余儀なくさせられた。

1945年春、ドレスデンの疎開先で、夫のカールと再会し、歴史の大展開が間もなく始まろうとするところ(第14場)で終わる。

私はこのフィナーレより、第13場のゲシュタポの尋問を受ける場面こそが、最後の山場と見た。なぜなら、この芝居を見る前日、ベルリンのD.ブランケ博士が、「お前のアドレスをみつけたぞ、相変わらず、左翼の活動をしているのか」とメールをくれて、インターネット・プロバイタ―のGoogleに紹介されているケーテの芸術作品を全部見ることができるアドレスを教えてくれた。その半分をやっとダウンロードし、脚本家の和田庸子さんに渡すことができた。

ゲシュタポ将校が最後に「…では、お体を大切に」という短い挨拶のなかに、ケーテが69年の生涯に貫き通してきた民衆のための芸術家への尊敬の挨拶があった。この言葉にこそ歴史を貫く深い意味があったと気付いた。

 

日本に比べると、ドイツはいち早く周辺の国々にたいし侵略戦争の誤りを認め、謝罪してきた。またそれなしに地続きの近隣諸国との友好は実現しなかった。

その一方で、ドイツが生んだ革命的(この言葉が適当かどうかわからないが)、世界の常識ある人なら誰でもが認め、ほめたたえる作品の残してくれたケーテのことを誇りに思う時代がやってきたのだ。本物の時代を暗示したからだ。

日本で初めての上演となるこの芝居を、京浜協同劇団のけいこ場での100人の観客で身動きも出来ないなか、70年を超える歴史を2時間半の上演で見せてくれた演出家や俳優の皆さんのなみなみならぬ努力にたいし、心からの挨拶をおくる。

そして、もし叶うことなら、来年夏の世界エスペラント大会がデンマークで行われるのを機に、もう一度ベルリンを訪ね、旧友たちにも会い、ケーテ・コリヴィッッ美術館を訪ねたいとおもっている。(2010-12-06

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2010年11月26日 (金)

「黒と白のピエタ」

 

川崎を中心にした工場地帯で働く労働者たちが演劇サークルを作って50年。いまや京浜協同劇団の名は広く知られるようになった。

この劇団に籍を置く和田庸子は「ミスター・チエムニ―!天空百30尺の男」(註1)のオリジナル・シナリオを書き、3年前に劇団専用の練習所「スペース京浜」で上演して好評を博した。そして今回、同じ作者によってドイツの画家ケーテ・コルヴィッツの生涯を題材にした作品を書上げ、同劇団と東京のから演出家、俳優の応援をえて「黒と白のピエタ」を11月26日から12月5日にかけて上演することになった。

送っていただいた上演台本は、第3稿で2010年6月30日と明記され、劇団関係者の話として20年にわたって構想を固め、彼女の子どもにもケーテと名づけたくらい、打ち込んできたと聞く。

しかも、ドイツで国民的画家の生涯は、日本で初めて劇化され上演される。題して「黒と白のピエタ(彫刻)」。台本の最後に紹介されているコルビッツの画集、版画集をはじめ、列伝、評論、解説と関連資料は20点以上におよび、この台本を書きあげるために彼女がいかに努力したかを証明している。

 舞台は2幕14場から成り、全体に14曲の歌が入り、出演者全員で歌って舞台をもりあげている。

ケーテの父親は左官屋の親方、小さい時から父の仕事場にいた職人から絵や銅版画を学ぶ。

17歳になった時、父がベルリンへ絵の勉強に行かせる。ケーテと兄の友人で若い医師カールの間に愛が生まれ、二人は北ベルリンの労働者街に住む。そしてケーテは連作「織工の蜂起」の銅版画を作り上げ、一躍注目を浴び、大展覧会で金メダルのノミネートされるが、皇帝ウイルヘルム2世は賞金を出すことを拒否する。しかし、その後ドイツ農民戦争を題材にした作品は高く評価される。

 1914年第1次世界大戦がはじまると、末息子ペーターが志願して戦死してしまう。ケーテはこれを題材に木版画による「戦争」や労働者を題材にした作品を作りあげる。

ドイツは敗北し、ヨーロッパに新しい革命の機運が生まれるが、ドイツにはヒットラーのナチスドイツが台頭すると、「退廃芸術」として、排除される。夫カールは1940年に没し、孫のペーターが東部戦線で戦死する。

1943年ドレスデン近郊のモーリッツブルグに疎開し、そこでひそかに「種を粉に挽いてはならない」という作品を作り上げるが、これが最後の作品となる。

ケーテ・コルヴィッツの「ピエタ」は、その後1993年にベルリンの国立中央戦争犠牲者追悼所の内部中央に設置されている。また日本では愛知県美術館に「子帯とたちⅡが展示されている。

(註1)昭和5(1930)年川崎にあった富士紡績工場の煙突に登って労働者の待遇改善の要求を実現させた実話にもとずくオリジナル劇

(以上は「フリー百科事典ウイキペディア」から)(2010-11-26)

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